「あの、どうかしたんですか? 横井《よこい》さん、眉間のしわが凄いことに……」
そう眞杉《ますぎ》さんから言われて慌てて顔を上げる、すると彼女はギョッとした表情で私を見る。眞杉さんは大きな眼鏡をしているが、その表情は豊かでとても分かりやすい。 それにしても、凄い眉間のしわっていったいどういう……? 「ご、ごめんなさい! 私何か横井さんを怒らせるような事言っちゃいましたか?」 慌てる眞杉さんに、私はますます訳が分からなくなる。どうして? そう訊ねようとした時、カウンターの方からこちらに向かってくる梨ヶ瀬《なしがせ》さんを囲んだ女性社員達が目に入った。 どうしてこっちに向かって来るのよ!? どう見たってそんな人数の席は空いてないでしょ! そう、私の周りは見てわかる通りもうほとんど席が空いていない。空いているのは私の隣の席と……眞杉さんの横だけだ。 絶対こっちには来るなと祈っているのに、彼らは真っ直ぐにこのテーブルの横まで来て…… 「うーん。席、空いてないねえ?」 そんなのちょっと見れば分かるでしょう? いちいちここまで来て確認しないと分かんない程、近眼なんですかね。そんな梨ヶ瀬さんの、のんびりした口調にイライラしながら箸でから揚げを刺す。 「ねえ、梨ヶ瀬さん。あっちに行きましょう、ここじゃあ私達が一緒に座れません」 ええ、是非そうしてください。さっさとその女性社員を引き連れてどこへでも! 目の前の眞杉さんの顔色がどんどん悪くなっている気がするが、こっちが気になりそれどころじゃない。 「横井さん、顔がどんどん酷い事になってますっ! いったい、どうしたっていうんですか……?」 眞杉さんの顔色が悪くなったのはどうやら私の所為だったらしく、彼女は慌てた様子で鏡を出して見せてくれた。 その小さな鏡に映された私の顔は眉間に深いしわが寄り、嫌だと感じる気持ちが露骨に表情に出ているようだった。 そう、つまりは…… 「なんていうか、見ないで済ませたいものほど目に入って来るのはなぜかと思ってね……」 そう言って大きなため息をついたのと同時だった。私の隣と眞杉さんの横の席に、食事のトレーが置かれたのは。 「ここ、空いてるよね?」 ニッコリと微笑んで眞杉さんに尋ねるのは、確か別の部署の男性社員だった気がする。そして私の隣でその様子をニコニコと見ているのは、取り巻きに囲まれていたはずの梨ヶ瀬さんで…… おかしい、さっきまでこの人を囲んでいたはずの女子社員はいったいどこに行った!? あがり症の眞杉さんは普段話さない男性社員から話しかけられて、軽くパニックになっているようだし。 お願いだから、嘘でもいいから席は空いて無いって言って欲しい! しかし、そんな私の願いもむなしく…… 「は、はい! 空いてます、この二つの席はいつも人が座らないのでっ」 困惑状態になった彼女は、二人に余計な情報まで与えてしまう。そんな眞杉さんに頭を抱えつつ、チラリと梨ヶ瀬さんの顔を覗きみると彼もまた私の方を見ていて……「そんな事よりも! いいんですか、あの人たちをそのまま置いてきちゃって。もしさっきので篠根《ささね》さんが逆恨みでもして、あることないことベラベラ話されでもしたら……!」 このままじゃ完全に梨ヶ瀬《なしがせ》さんのペースになる、そう思った私は無理矢理話題を変えてしまうことにした。 だって……これ以上は私の心臓が持ちそうにない。 それに篠根先輩や他の女子社員のことが、気になっていたのも本当だったし。ああいうタイプは自分がしたことは棚に上げ、相手を悪く言うことを得意とするはずだから。「それなら心配ないよ。彼女の望み通り、その能力を十分生かせる場所に移動させてあげるつもりだしね」「……それって、どういう? ま、まさか!」 うちの会社の別の部署には、仕事は出来るがとても人使いが荒くて有名な鬼課長がいる。その人のサポートについた人は、三ヶ月で辞めてしまうという噂まで流れるほどに。 そんな彼が今、優秀なサポート役を探しているというのは誰でも知っていることだった。もちろん立候補するような強者は、いるはずもなかったわけだが…… まさかと思うが、この人はそんな鬼部長のサポート役に篠根さんを推すつもりなのだろうか?「そう、そのまさかだよ。彼女をこのまま君のそばに置いておいても、ロクな事をしなさそうだしね。しっかり仕事に集中出来る環境に、変えてあげようと思って」 そう言って微笑む梨ヶ瀬さんが、本当の悪魔のように見えた。この男を敵に回すような真似はしてはいけない、今すぐ回れ右してこの部屋から出てしまいたい。 頭ではそう思ったのに、ゆっくり近づいてくる梨ヶ瀬さんから逃げられない。「や、やりすぎではないでしょうか? 何も、そこまで……」 確かに篠根先輩のやったことに腹は立ったが、あの鬼課長のサポートなんてあんまりじゃないだろうか? 彼女だって梨ヶ瀬さんのサポートにつきたくて、仕事の出来る存在だというアピールをしていたんでしょうし。 だけど私が思っていたのより梨ヶ瀬さんは厳しい考えらしく、戸惑う私ににっこりと笑ってみせる。「やりすぎ? いったいどこが? 彼女は二度も君に対して嫌がらせでは済まない行動をとった、これは当然の報いだと思うけど」「それはそうですが、何も鬼課長のところでなくても」 どうして嫌がらせされた本人が、加害者を庇わなきゃならないのか分からない
ショックを受けて呆然としている篠根《ささね》先輩たちをその場に残して、私は一度お手洗いに行き鏡で自分の顔を見る。鏡に映る自分はいつも通りなのに、さっきの出来事で何だか胸が落ち着かない。 大きなため息をついて頬を叩いて気を引き締めると、そのままミーティングルームへと向かった。「横井《よこい》です、失礼します」 扉をノックして返事を確かめて部屋の中へ、そこには梨ヶ瀬《なしがせ》さんが一人でテーブルの傍に立っていた。 そのまま部屋の入り口で黙って立っていると、あちらからゆっくり近づいて来て……「本当に横井さんは何でもかんでも全部自分で抱え込もうとするよね」「そう、かもしれないですね……」 人に頼られるのは大好きなのに、頼るのは得意じゃない。特に男性に弱みを見せるのは、随分前から苦手だった。 こんな性格だから可愛くないのは百も承知だし、それで梨ヶ瀬さんが興味を無くしてくれるのなら万々歳だ。「可愛くないって言われるでしょ?」「それはどうでしょうね? まあ、梨ヶ瀬さんがそう思うのは勝手ですけど」 投げやりな言い方に、梨ヶ瀬さんが少し呆れたように溜息をつく。今になって助けた事を後悔しているのかもしれない、そう思っていたのに……「可愛くなさ過ぎて、俺には可愛くてしょうがなく見える。どれだけこの子は頑張り屋なんだって、撫でて甘やかしてやりたくなるよ」 ……いったい何を言っているの、この人は?「わ、私が言っているのはそういう事じゃなくて……!」 可愛くないと言われて、そんな風に考えてるなんて思わないでしょう? 本当に梨ヶ瀬さんの本性って、滅茶苦茶に歪んでるとしか思えない。 そんな私の考えを読んでいるかのように……「もう横井さんに呆れて興味がなくなるとでも思った? 残念だったね、ますます君の事が欲しくなったよ」「欲しくなったって……また、そんな馬鹿みたいなことを言って」 はっきりと言われた言葉に、一瞬で頭が沸騰しそうになった。普段はのらりくらりとかわして、遠回しな言葉しか言わない人なのに。 一気に梨ヶ瀬さんを異性として意識してしまって、頭がうまく働かない。上手い返しも見つからないまま、顔を赤くさせてしまい梨ヶ瀬さんを喜ばせてしまう。「へえ、そんな顔してくれるようになったんだ? 前よりちょっとは横井さんに、男とし認識されてきたって思っていいのか
「それは、その……」 梨ヶ瀬《なしがせ》さんからの質問の答えに迷う。今ここで先輩が嘘を言っていると言えば、先輩や外にいる女子社員は上司から注意を受けるだろう。 しかしこれだけ嫌がらせを受けて黙っていても、きっと彼女たちの行為を増長させるだけ。 それならば……「どうなの、横井《よこい》さん?」「……いいえ、ハッキリと篠根《ささね》先輩に梨ヶ瀬さんのサポートを断るように言われました。そのうえ自分の方が相応しいと、上司に口添えするようにとも」 そう言った瞬間、梨ヶ瀬さんの口角がクッと上がった事に気付く。どうやら彼が望んでいた答えを私は選ぶことが出来たみたいだ。 だけどそんな梨ヶ瀬さんとは反対に、真っ青になって震える篠根先輩。彼女は私をギラッとした目で睨むと……「なんてことを言うの、横井さん! 嘘、嘘です! 横井さんは、私が嫌いだからってそんなでたらめをっ!」 さっきまで私を威圧していた彼女は、なりふり構わず私を悪者にしようとしてくる。嘘なんて私は行ってないし、反省の色の無い彼女に私の中で何かがプチンと音を立てて切れた。「嘘? 何が嘘なんですか? こうやって先輩が、私を呼び出して言うことを聞かせようとしたことですか。それとも……この前、資料室に閉じ込めるなんて子供じみた嫌がらせをしたことですか?」「……横井さん、貴女!!」 カッとなった先輩が手を振り上げると同時に、私の前に誰かが立ちふさがる。いや……誰かだなんて、私を庇ってくれる人なんて一人しかいない。 間違いなく、この後ろ姿は梨ヶ瀬さんのものだ。「はい、ストップ! いくら頭にきても暴力は駄目だって分かるよね、篠根さん」 篠根先輩の上げた手は振り下ろされることなく、梨ヶ瀬さんに手首を掴まれそのままの状態になっていた。 力いっぱいに振り下ろされるはずだった腕を、梨ヶ瀬さんは軽々と止めてしまっていて。「は、離してください! 私は別に暴力なんてっ」 焦ったような先輩の声に、梨ヶ瀬さんは優しく微笑んでこう言った。「じゃあこの拳はどうするつもりだったの? 一度くらいなら目を付けるくらいで済ませようと思ったけれど、こんなに何度もだと許せなくなるのは当たり前でしょ?」「何度もって……まさか、あの資料室の事も知って?」 表面上は笑顔でも、梨ヶ瀬さんの持つ雰囲気がいつもとは違っている。その言葉の
それが出来ていれば苦労はしない、何度も頼んでもこの結果が変わらないという事を知らないくせに。 簡単にああしろこうしろなんて、部外者が口を挟まないで欲しいものだわ。「分かるんでしょう? 横井《よこい》さんにはまだ荷が重いと思って言ってあげてるんじゃない」「荷が重い……ですか?」 言われなくても、それも何度も部長に伝えましたよ。きっと信じてもらえないでしょうけれど。 親切ぶって本音は全然違う所にあるくせに、私をサポートから外したくてしょうがないだけなのにね。「横井さんより私の方が梨ヶ瀬《なしがせ》課長のサポートに相応しい、そう部長に伝えてくれればいいのよ。それくらい簡単でしょう?」「それが本音ですか……」 割と早く自分の希望を言ってくれた先輩に呆れつつ、どうしたものかと考える。きっと「はい」というまでここから出す気はないのだろうし。「何ですって!?」「ねえ、ちょっと……篠根《ささね》先輩、あの……」 意外と落ち着いたままの私の返事に腹を立てている先輩に、給湯室の外にいる別の女子社員が心配そうに声をかけている。 そう思っていたのだけど……「何か楽しそうなことをしてるみたいだね、俺も混ぜてくれない?」 このピリピリとした雰囲気にそぐわない調子のよさげな明るい声音、これは間違いなく梨ヶ瀬さんのものだ。「な、梨ヶ瀬課長! どうしてここに?」 慌てた様子の先輩が外にいたはずの女子社員を見ると、彼女たちは既に梨ヶ瀬さんに後ろで申し訳なさそうに手を合わせている。 きっと梨ヶ瀬さんに上手く丸め込まれてしまい、この現場を見せてしまったのだろう。「どうしてって、ここは社員全員が使う給湯室だよね? そこに俺が来ることがそんなにおかしいのかな」 梨ヶ瀬さんの遠回しな言い方が余計に怖い。誰もが見に来れる場所でおかしな事をしている方が悪い、私にはそんな風に聞こえてしまう。 梨ヶ瀬さんはゆっくりとした動作で私の前に立ち、先輩と真正面から向き合ってみせる。この状態が彼に守られているみたいで、何となく恥ずかしかった。「篠根さんが優秀なのは知っているけれど、どうして俺のサポートに相応しいかを横井さんに言わせる必要があるの?」「それは……その、私が言うよりは話がスムーズかと思いまして」 嘘を言わないで。そうやって私を威圧して、自分から梨ヶ瀬さんのサポートを断
当たり前だが梨ヶ瀬《なしがせ》さんのサポート役になるという事は、彼と一緒に居る時間が増える。この人の傍に呼ばれる回数も増える。 ついでに言うと、梨ヶ瀬さん目当ての女子社員の嫉妬の視線も一身に受ける事になる。「ああー、憂鬱……」 これから先の事を考えれば考えるほどに、頭が痛くなる。今までの平和だった私の仕事が、一気に気の重いものに変わってしまったのだ。 イライラしながら梨ヶ瀬さんを睨むと、私の視線に気づいた彼がニッコリと微笑んでくる。 梨ヶ瀬さんは上機嫌だが、私は不機嫌極まりない。その事に気付いてください、余裕の笑みを浮かべないでください。物凄く腹が立つから。 しかも、そんなときに限って……「ねえ、横井《よこい》さん。ちょっといいかしら、話があるの」 すぐ傍に立っていたのは、私を資料室に閉じ込めた先輩で。とても不愉快だと言わんばかりの顔をして、私に奥にある給湯室まで着いてくるように言ってきた。 渋々立ち上がり彼女についていこうとして課長のデスクを振り返ってみると、そこに梨ヶ瀬さんはいなくて…… こんな時に限ってどこで何をしているのか分からないなんて、本当に私のことを守ってくれるつもりあるの? そんな梨ヶ瀬さんに少しだけ苛立ちを感じながら、言われるままに給湯室へと向かった。「私が言いたいこと、分かるわよね?」「はあ、何となく……」 一方的な嫌がらせをして、こんな風に強引に連れ出しておいてよく言う。私が言いたいこと、とやらもこの分だと相当身勝手な内容に違いない。 この先輩が梨ヶ瀬さんに気があるのは分かってる。どうせ今回のサポート役に選ばれた、私のことが気に入らないのだろうけれど。 おあいにくさま、私が散々断ってのこの結果なんですよ。どうにかしてほしいのなら、上司に直接掛け合ってくれません?「何となくって、横井さんって本当に生意気ね! そんなんだから、皆に嫌われてるって分からないの?」「そういうの、私は気にしないタイプなんで」 それに皆っていったい誰のことだろう? 少なくとも私の事を敵意剥き出しで見ているのは、梨ヶ瀬さんの金魚のフンである先輩を含めた数人のはずだけど。「課長が味方に付いているから大丈夫ってこと? 何それ、調子に乗らないでくれる?」「いえ、そんな事は一言も言ってませんけど?」 貴女こそ勝手に言葉を変な方へ解釈し
月曜の朝。いつもよりも三十分早く出社した私は、眞杉《ますぎ》さんの働いている部署へと向かう。 他の社員ならばこんな早くには出社しないだろうけど、真面目な眞杉さんはそんな事はない。誰よりも早く出社して、他の社員のデスクの拭き掃除などをしているらしい。「おはよう、眞杉さん! 今日も、早くから頑張ってるのね」「ええ? 横井《よこい》さん、いったいどうしたんですか?」 私が自分の部署から離れた場所にある、眞杉さんの所に来たことに驚いているようだ。オロオロとする様子も、ちょっと可愛くて何となく庇護欲を掻き立てられる。 鷹尾《たかお》さんが眞杉さんを守ってやりたくなる気持ちも分からなくはないのだけど……「今日はね、ちょっと眞杉さんに頼みたいことがあって……」 眞杉さんに対して後ろめたさがあるせいか、途中からもごもごと聞き取りにくい感じになってしまう。 そんな私を見て眞杉さんは、眼鏡の奥の瞳をきょとんとさせて……「珍しいですね、横井さんが私に頼みごとなんて? いいですよ、私に出来る事ならば」 ああ。もしここで眞杉さんが嫌だと突っぱねてくれれば、どれだけ良かっただろう。そう神に願っていたのに、その祈りは届かなかった。 笑顔の眞杉さんを見て、純真無垢な彼女を騙しているような罪悪感に襲われてしまい……凄く胸が苦しい。 あれもこれも全部梨ヶ瀬《なしがせ》さんの所為だと、彼が悪いんだという事に出来ればいいのに! 私は眞杉さんがショックを受けることを覚悟して、自分のお願いを彼女に告げたのだった。※※「おはよう、横井さん。もう聞いていると思うが、これから梨ヶ瀬君のサポートを頼んだよ」「部長! その話なんですが、昨日も話した通り私にはまだ……」 梨ヶ瀬さんと二人、ミーティングルームに呼び出され例の件について部長から頼まれる。 それでも素直に「はい」と言えない私は、どうにか断る方法がないかと足掻く。真後ろの梨ヶ瀬さんから、痛いほどに冷たい視線を感じながら……「横井さんが適任だって梨ヶ瀬君も言っているし、私もそう思うんだ。君のステップアップにも繋がるし、頑張りなさい」「部長……」「横井さんがサポートしてくれれば、俺も心強いです。分からない事も多いのでよろしく頼むね、横井さん」 やっぱり梨ヶ瀬さんが、余計な事を部長に言ってたんじゃない! 何が私が適任よ